第3章 薬剤師におけるEBM実践の現状と障壁
EBMの重要性は認識されているが実践は広がっていない現状 Evidence-Based Medicine(EBM)は医療の質を高める必須の考え方ですが、薬剤師の日常業務にはまだ十分に浸透していないのが実情です[1]。提唱から四半世紀が経過した現在でも、日本の薬剤師でEBMを使いこなしているのは大学病院など一部に限られ、多くの薬剤師はEBMを「重要だとは思うが実務でどう活かせばよいか分からない」という段階に留まっています[1]。実際、宮城県の薬剤師を対象とした調査では85%以上が「臨床試験論文を読む習慣がない」と回答した一方、8割超が「業務遂行上、論文を読む必要性がある」と感じていました[2][3]。つまり、多くの薬剤師がEBMの重要性自体は認識しながらも、それを日々の業務に落とし込めていない現状が浮かび上がります。 実務でEBMを阻む主な障壁 では、なぜ重要性を理解しながらもEBMを実践できないのでしょうか。現場の薬剤師が直面する主な障壁には次のようなものがあります: 時間的制約 調剤や病棟業務に追われ、文献を探して熟読する時間が確保できないことが最大の障壁です。前述の調査でも、論文を読まない理由のトップは日米ともに「時間がない」でした[4]。多忙な日常業務の中で腰を据えて文献検討する暇がないという現場の声は根強く、実際日本の薬剤師の約4割が「文献を読む時間がない」と回答しています[5]。これはEBM実践への高い意欲があっても、物理的な時間不足が大きな足かせになっていることを示しています。 情報アクセスの困難(言語の壁を含む) 必要なエビデンスに迅速にアクセスできない環境も障壁です。例えば勤務先に学術データベースや文献への十分なアクセス権がない場合、情報収集に手間取ります。また日本では、臨床に影響を与える主要論文の多くが英語で書かれているため、英語の文献を読むこと自体が大きなハードルです[6]。実際、先の調査では日本の薬剤師の22.5%が「言語の問題」を論文を読めない理由に挙げています(米国では0%)[6]。このように言語・情報面でのアクセス障壁により、必要な根拠にたどり着けないケースが少なくありません。 教育・研修体制の不備 EBMを実践するためのスキル習得の機会不足も深刻な課題です。日本の薬剤師の3割以上が「論文を批判的に読むことができない」と自己評価し、6割以上が「論文の読み方を学んでこなかった」と回答しています[7]。これは裏を返せば、大学教育や卒後研修において十分なEBM教育が行われてこなかったことを示唆します。[8]にもあるように、日本の薬学部では「臨床論文の検索・読解・活用法」に関する教育が必ずしも十分でなく、その不足が現場で『どう論文を読めばよいか分からない』薬剤師を生んでいると考えられます[8]。また職場内研修やOJTでEBMに触れる機会が少ないこと、身近にロールモデルとなる先輩がいないことも、現場でEBMが根付かない一因でしょう。 保険薬局と病院薬剤部:業務環境の違いによるEBM実践の難しさ EBM実践の障壁は、薬剤師の勤務する業態によっても様相が異なります。保険薬局(調剤薬局)と病院薬剤部では業務環境や求められる役割が異なるため、EBMを取り入れる上でそれぞれ独特の課題があります。 まず病院薬剤師は、チーム医療の一員として医師や看護師と連携しながら業務を行います。診療ガイドラインの策定や処方設計への関与、患者ごとの薬物療法提案など、病院では薬剤師がEBMを活用できる場面が比較的多く、実際に大学病院や大規模病院では日常的にEBMを実践している薬剤師も少なくありません[9]。病棟業務では患者の臨床データや検査値に基づき、最新エビデンスを踏まえて処方提案や投与設計の確認を行う機会があります。また病院では図書室やオンラインジャーナルへのアクセスが整備されている場合も多く、院内勉強会や薬剤部内のカンファレンスで文献検討をする文化が根付いているところもあります。そのため病院薬剤師はEBMを実践しやすい土壌がある半面、業務範囲が広く専門知識も高度に求められるため、EBMを使いこなすには相応の努力と時間確保が必要です。忙しい当直業務や委員会業務の合間を縫って文献検索・吟味を行うことは容易ではなく、「理想は高いが現実には手が回らない」というジレンマを抱えがちです。 一方、保険薬局の薬剤師は地域の患者さんに日々向き合い、処方せん調剤と服薬指導を中心とした業務を行います。門前の医療機関から持ち込まれる処方せんを短時間でさばきつつ、患者対応も並行する忙しさの中で、その場で文献を調べ直す余裕はほとんどありません。また一人薬剤師体制や少人数で営業している薬局も多く、職場内で専門知識を共有したり相談したりする相手が限られることもあります。こうした環境では、EBMの必要性を感じつつも「調剤をこなすだけで精一杯で、新たなエビデンスを探求する時間がない」という状況に陥りやすいでしょう。さらに処方提案や疑義照会の場面では、医師に対してエビデンスを根拠に意見を述べる必要がありますが、医師とのコミュニケーションが主に電話やFAXを介して行われる保険薬局では、限られた情報と時間でエビデンスを示す難しさがあります。例えば重複投与やポリファーマシーの是正を提案したくても、裏付けとなる文献を即座に示せないともどかしさを感じることも少なくありません。 このように、病院薬剤部と保険薬局ではEBM実践のハードルの性質が異なります。病院では比較的アクセスと機会に恵まれるものの時間的・専門的負荷が重く、保険薬局では患者対応に追われ情報収集の機会が乏しいという対照的な状況です。しかし共通しているのは、いずれの現場でもエビデンスに基づく判断が患者ケアの質向上に直結するにもかかわらず、その実践が業務上の種々の制約に阻まれている点でしょう。たとえばポリファーマシーの適正化は病院退院時のみならず地域薬局での服薬管理でも重要ですが、エビデンスに基づき「この薬は継続必要性が高く、こちらは中止可能」と評価するには調査と検討が欠かせません[10]。また処方監査で疑問点を発見しても、それを裏付ける根拠を示して医師に提案できなければ改善にはつながりません。病院・薬局を問わず、薬剤師がエビデンスを活用できる場面は確実に存在しており、その期待も高まっているからこそ[10]、上述した障壁を乗り越えていく工夫が求められているのです。 障壁を克服するための工夫:テンプレート化・分担・標準化 限られた時間と資源の中でEBMを実践していくためには、業務フロー自体に工夫を凝らし「続けられる仕組み」を作ることが重要です。ここでは、テンプレート化・分担・標準化というキーワードを軸に、現場で実践可能な具体策を考えてみます。日々の調剤業務に少しずつでも組み込めれば、障壁を低くしつつEBMを習慣化する助けになるでしょう。 臨床疑問のテンプレート化(PICO活用) 漠然とした疑問も、PICO(Patient/Problem, Intervention, Comparison, Outcome)のフォーマットに当てはめて整理することで答えを見つけやすい具体的な課題に落とし込めます。例えば「心不全に一番良い治療は何か?」という漠然とした問いよりも、「高齢の収縮期心不全患者にACE阻害薬を投与するとプラセボに比べ死亡率は低下するか?」といった形に具体化する方が、必要なエビデンスを絞り込めます[11]。あらかじめPICOの項目を書き出せる質問テンプレートを用意しておけば、新たな疑問が生じるたびに要点を整理し、効率的に文献検索へ移ることができます。PICOテンプレートは医療情報の授業や実習で推奨されており、EBMの第一歩である「問いの定式化」を素早く行うのに役立つツールです。 疑義照会支援メモ・フォームの活用 処方内容に疑問が生じた際、医師への疑義照会を迅速かつ的確に行うためのひな型やメモを用意しておくことも有効です。電話連絡前に要点をメモに整理し、代替案となる薬剤やエビデンスの裏付けも調べておくのが望ましいとされています[12]。例えば「処方意図の確認事項」「提案したい変更内容」「引用するガイドラインや文献」など項目立てした照会シートを用意し、日頃から入力・記載に慣れておくとよいでしょう。実際に地域によっては共通の疑義照会FAX様式が整備されている例もあり、フォーマットを標準化しておくことで伝達漏れを防ぎつつ時間のロスなく照会を行えるメリットがあります。事前に根拠となるデータや代替薬の情報を押さえた上で照会に臨めば、医師との建設的な議論につながりやすく、結果的に患者にとって最適な処方の実現に近づくでしょう。 服薬指導用エビデンス文例集の共有 忙しい調剤現場でも患者一人ひとりに質の高い説明を行うため、エビデンスに基づいた定型的な説明文例を用意しておくことも有効です。例えば「この薬を飲み続けると将来○○の発症リスクが△△%低下することが示されています」や「副作用の発現率は○人中×人程度と報告されています」といった具体的な数字やエビデンスを織り交ぜた説明文をあらかじめ作成・共有します。世の中の臨床論文には日々の服薬指導に活かせるエビデンスが埋もれており、それを掘り起こして指導内容の裏付けに役立てる試みも始まっています[13]。エビデンスに裏打ちされた説明を患者に提供すれば、患者の納得感や服薬アドヒアランス向上にもつながります。電子薬歴システムの定型文機能にこれら文例を登録しておけば、短時間で的確な説明を書き出すことができ、指導の質と効率を同時に高められるでしょう[14]。 エビデンス収集・評価業務の分担と共有 EBM実践を個人の努力だけに任せず、チームで分担・協力して行う仕組みも重要です。例えば薬局内で定期的にジャーナルクラブ(論文抄読会)を開催し、メンバーが交代で興味ある論文を要約・批評して共有する取り組みは有効です。実際、インターネット上では薬剤師有志が集まりSkypeで論文抄読会を行い、それを音声配信する「薬剤師のジャーナルクラブ」が2013年に発足しています[15]。この取り組みは「どうすればEBMのハードルを下げられるか」という議論から生まれたもので、参加者がお互いに学び合いながらエビデンス活用スキルを高める場として機能しています[15]。職場内でも、専門分野ごとに文献検索の担当を割り振り情報収集を分担したり、得られた知見を簡潔な要約メモにして共有(標準化)したりする工夫が考えられます。こうしたテンプレートの活用、タスクの分担、情報の標準化によって、個々の薬剤師の負担を軽減しつつEBM実践を「チームとして継続できる仕組み」にすることが可能になります。 教育・研修体制への提言 現場レベルの工夫と併せて、薬剤師の教育課程や研修体系全体を通じてEBMを重視する改革も欠かせません。まず大学教育においては、6年制薬学課程の中で文献検索・批判的吟味・患者への適用といったEBMの基本ステップを体系立てて習得させる必要があります。実際、令和4年度改訂の薬学教育モデル・コア・カリキュラム(案)では「医療現場におけるEBMの実践」が明確に盛り込まれ、学生が臨床現場で根拠に基づく薬物療法を実践できるよう大学と現場が連携して教育することが謳われています[16]。座学だけでなく実務実習や演習科目でEBMの手順を反復練習し、卒業時に基本的なEBM実践能力を身につけられるようなカリキュラム設計が望まれます。 卒後研修や継続教育の場でもEBMを習熟する機会を充実させることが重要です。病院薬剤師向けには、卒後臨床研修プログラムの中に文献抄読会や治療ガイドラインの検討会を組み込み、若手が先輩とともにEBM思考を鍛えられる場を設ける動きが見られます[17]。地域の保険薬局においても、地域薬剤師会や大学が主催するEBM研修会への参加を促したり、オンラインで参加できる勉強会を案内したりするなどして、個々の薬剤師が継続的に学べる環境を整える必要があります。先述の「薬剤師のジャーナルクラブ」のようなオンラインコミュニティは、地理的な制約を超えて多くの薬剤師にEBM学習の機会を提供する好例です[18]。また各職場でエビデンス共有の文化を育むことも大切です。例えば新しい知見や興味深い論文を見つけたら薬局内の回覧やチャットで紹介し合う、研修で学んだことをスタッフ間で報告し合う、といった知識の共有を奨励する風土づくりがEBM定着の鍵となります。管理薬剤師や経営者の立場からも、勤務時間内に情報収集や研修に取り組むことを奨励・評価する仕組みを用意するなど、現場薬剤師が安心して学べる労働環境を整備することが求められるでしょう。 次章へのブリッジ:EBM実践のステップへ この章では、薬剤師がEBMを実践する上で直面する現状の課題と、それを乗り越えるための工夫について述べました。時間や情報への制約は依然大きいものの、テンプレートの活用やチームでの分担、そして教育体制の強化によってEBMは「現場で続けられるもの」へと近づいていきます。重要なのは、小さくてもできることからEBM思考を日々の業務に組み込んでいく姿勢でしょう。 では、具体的に薬剤師はどのようにEBMを実践していけば良いのでしょうか。次章では、EBMの基本となる5つのステップ(Ask, Acquire, Appraise, Apply, Assess)を薬剤師の業務に即して解説していきます[19]。臨床疑問の立て方から文献検索のコツ、論文の批判的吟味のポイント、患者への適用方法、そして実践の振り返りまで、EBMサイクルを回す具体的な方法を一緒に確認していきましょう。EBMという武器を日々の現場で活かすために、まずは次章でEBM実践のプロセスを一つひとつ紐解いていきたいと思います。[19] 参考文献 [1] [9] [10] [18] EBMを身近なツールに|薬事日報ウェブサイト (https://www.yakuji.co.jp/entry54034.html) [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [15] インターネット上でのEBMスタイル臨床教育プログラム (https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjphe/4/0/4_2019-022/_html/-char/ja) [11] [19] Evidence-Based Medicine for Pharmacists — tl;dr pharmacy (https://www.tldrpharmacy.com/content/evidence-based-medicine-for-pharmacists) [12] 薬剤師必見!疑義照会のポイントと例文を交えた記録の書き方を紹介|薬剤師求人・転職・派遣ならファルマスタッフ (https://www.38-8931.com/pharma-labo/skill/reference.php) [13] 論文で探る服薬指導のエビデンス|連載企画|医師向け医療ニュースはケアネット (https://www.carenet.com/pharmacist/hukuyakushidou/cg002152_index.html) [14] 電子薬歴の定型文機能のメリットとは? (https://www.e-medicationhistory.net/knowledge/temprate.html) [16] 資料2_薬学教育モデル・コア・カリキュラム(案) (https://www.mext.go.jp/content/20221124-mxt_igaku-0003.pdf) [17] プログラム・日程表 | 第10回日本薬学教育学会大会 - Confit (https://pub.confit.atlas.jp/ja/event/jsphe10/content/program)